見事な手仕事

「きれいですねー。」私たちの第一声である。5、6cmほどの小さな鯵の開きが、順序良くパットに並べられていた。1)まず、右手でつまんだ鯵の頭を取り、骨を取り、2枚に開いて、左手でパットに並べていく。2)右手で次の魚をつまんでいる。ずっと手元も見ずリズムを刻むようにその作業は止まることがない。今も昔もかわらず、魚を開くのは手作業だという。長年の間に培われた見事な手仕事に見とれてしまった。3)

「遊んどるかわりにしとるだけですちゃ。毎日仕事場に出ておりますけど、今では少ししかできんがです。歳とってしもうて、座っとる仕事やからできるがで。」
「高木水産」の2代目、高木敦子さん80歳4)は言った。年上の方に失礼かもしれないが、かわいらしいという言葉がぴったりの笑顔が素敵なおばあちゃんである。氷見市諏訪野(すわの)にある水産加工屋「高木水産」は、創業から数えて67年になる。
仕事場の中を奥に進むと、上庄川に出る。昔はここから直接、魚を揚げていたそうである。

魚との出会い

「高岡から嫁に来て、魚ちゃどんなもんかも知らんだがですよ。鰯が3種類あることも知らんだし。仕事は、義父と義母がしておりました。私は10年ほど子育てしてから、仕事をするようになりました。その頃は魚は配給制でね、烏賊(いか)が多かったと思います。今は、息子が毎朝、漁をしたり漁港で仕入れてきてくれるもんで、家ではほとんど地物の魚を使っております。5)それから、今では乾燥機になりましたが、その頃は全部天日干しでしたね。」6)
東京、大阪、名古屋などにも、商品を出荷しているという。
「都会には目の肥えた商売人がたくさんおいでて、色とか艶とかそりゃあ厳しいですよ。それでも昔、大阪へ行って最優秀賞いただいてきたこともあるがですよ。」と嬉しそうな高木さん。7)

氷見の「ミリン干し」の始まり

氷見市立博物館発行の『氷見の漁業と漁村のくらし』によれば、氷見のミリン干しは、大正8年頃氷見郡窪村の久世久松氏が、加工を試みたのが始まりとされている。当初は「末広鰮(すえひろいわし)」と名付けられ、昭和はじめ頃から「櫻干し(さくらぼし)」と言われるようになった。当時は魚の加工屋だけでなく、近郊農村部の冬場の農閑余業として大量につくられ、氷見の水産加工の主力の一つ8)となってきた。戦後になって「ミリン干し」という名称が一般的になったと言われている。

大切にしてきたこと

「氷見は、いいところやわね。灘浦海岸に、大境の洞窟。光久寺も好きやね。朝日山公園もいいがんなっとるし。そっでも、商店街にお客さんが来なくなってさみしいねえ。時代が変わってしもうたんかね。」氷見へお嫁に来て58年になる高木さんは、氷見の町の移り変わりを見てきた。9)
「長いことやってきて思うことは、信頼関係ちゃ大事なもんですよ。儲けようと思うとね、すぐ人にあかれるが(=あきられる)。薄利多売。うそついたり、べらぼうに儲けたりは大嫌いながです。朝晩仏様にお参りして、毎日幸せに生活させてもろうて喜んでおるがです。どうにかして健康におって、あんまり人の迷惑にかからんようにと思っとります。家の若い人たちが、大事にしてくれるもんで。ありがたいことです。」と語ってくれる言葉は、高木さんの歩んでこられた道である。10)何事にも通じるなあ…そんな気持ちになった。

2005年11月16日(水)取材
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