木造船を復元する
氷見の漁では、日本の古くからの船造りの技法によって制作された多くの種類の木造船が使われていた。時代は流れ科学技術の発展で、素材は木からFRP(グラスファイバーやプラスチック素材)へと主流が移り変わっていき、今では木造船を造る技術を継承している人は少なくなってしまっている。そのような時代の中に、氷見では数少ない木製の船を復元する事が出来る、59歳になる番匠光昭(ばんしょうみつあき)さん1)がいる。その番匠さんもが、つい最近30年ぶりに木製の船、天馬船(てんません)を再び造船したという。天馬船は木造船の小型の船で、氷見では網取りの際の連絡船や1本釣り、たこつぼ漁等に用いられていていたとても身近な船である。番匠さんは、木造船を再び氷見に復元したいと、積極的に動いている方である。
板図に描かれたしなやかな線
番匠さんの造船の工場は、氷見市を流れる上庄川の下流のほとり氷見市北大町にある。番匠家は代々続く船大工の家で、その職業は名前からも読み取ることが出来る。工場には昔の船を再び手がけるための、図面のような手がかりになるものがあるというので、それを見せてもらうことにした。
出てきた物は、しなやかな数本の線が描かれた薄い板きれだった。2)それは、断面図と側面図のアウトラインが描かれただけの板図であり、そのシンプルさに私たちは驚きを隠せなかった。現れているはずの完成予想図を、たった2本の線の交差でイメージするものになっているのである。3)
「この線がどこの線か、部材を造る時は全部頭の中に入っています。中学の時に親父に尺(さし)で叩かれながら覚えましたよ。でもね、職人なんて言うものは教わるものじゃなくて、全部自分で身につけていくものなんですよ。だから、この板図が残っておれば、全部分かるんですよ。今ではこの板図が分かるのは私ぐらいで、これを伝えるとなると大変なんですよ。」
体にしみこむ伝承
「私はもう中学の時分から学校が終わったら早く帰ってこいと言われてね。そして片づけをしたり、のこぎりで板を引き割ったり、そういうような事ばかりさせられていたよ。」
電動工具が無い時代、何でも手作業で行われていた。船体の美しい流線型を描くための薄い板はどうやって、作られていたのだろうか。
「みんなノコギリですよ。朝から晩まで、一つ引きにかかるとずっと引いているんですよ。でもね、弟子入りして2,3年したら電気の物も出てきたんですけれど、『そんな楽したら、言い船できん。』と言って親父は使わせてくれなかったんですよ。」
快活な笑顔から、その当時のつらさはみじんも感じない。むしろその苦労は、今番匠さんを支える誇りとなって、現代に天馬船を復元するエネルギーを生み出している。4)
天馬船の記憶と水面のきらめき
番匠さんにとって、復元に力を注ぐ天馬船の魅力とは一体なんなのだろう。
「自分たちにしてみると、天馬船というものは遊び道具という感じだったからね。ほら、友達にも『唐島連れて行ってくれ』とか。それで天馬船漕いで、唐島まで行くんですね。そして、海に潜ってサザエを捕ったり、牡蠣を捕ったりしてね。春なんかは行きは良いんだけど、今度は帰りに逆の風が吹いてきたりするんですよ。その中で必死に漕いで戻ってきた。5)天馬船というのは、そういう思い出が詰まっているからね。」
その日番匠さんの工場には、古くなって修繕を待つ木製の天馬船が置かれていた。6)めり込んで錆び付いた釘は、膨張して木を割ってしまうそうだ。7)古い釘を抜いて修繕しなければならい。手をかけてやらなければ、どんどんと壊れていってしまう。このことに気づくことが出来る人も少なくなっている。
上庄川を走る
番匠さんの工場の近くにある上庄川では、かつて氷見漁港がまだ無い頃に水揚げがされていた。その川を下流からあがっていくと、かつての風景を思い出させる漁具倉庫郡が姿を現す。8)今では、メーカー物の個人の釣り船などが停泊しているその川縁に、ひときわ目立つ木製の船があった。9)遠くから見ても手触りの良さそうな木のぬくもりを感じるその出で立ちは、現在では氷見で唯一残る番匠さんの手で造られた天馬船であった。持ち主の希望で、船外機を取り付けたり、船底にFRPを使用したり、近代的な要素もあるのだが、その出で立ちは他の船とは明らかに違った輝きを放っていた。無理をお願いして、番匠さんに櫓でその船を漕ぎ出してもらった。ゆったりと水をかき櫓を動かし、水面を滑る天馬船。10)ゆりかごのように揺れる船に体を預け、頬をかすめる風を感じながら岸を見ると、いつもの氷見の姿とは違った風景に出会うのだ。
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